2005年07月06日

トラトラトラ!



えぇ!?アメリカの映画なんですか???
真珠湾攻撃の映画。第二次世界大戦の勃発の瞬間を描く非常に中立的で貴重な映画。
ハリウッド作品、そうでなくてもアメリカの歴史映画作品は、エンターテイメント風に脚色されていたり、作る側の意図によって中立的な立場を失ったりなど、まあ、ようするに誰かがやられたコンチクショウ、もう許さねぇぞ、末代まで呪ってやるとか、主人公がいて、その視点、感情などから描かれたりします。
しかしこの映画は、殺された悲しみなど一切を排除して歴史に忠実に描かれている珍しい作品です。なので本当にアメリカ作ったのかなとかなり疑ってしまいました。
70年作の映画で日米合作映画。日本の昔懐かしい俳優さんもしっかり出てます。ちゃんと日本語しゃべってますよ。
当時の歴史的な背景を忠実に再現してます。それぞれの思惑もきちんと表現しているし、山本五十六が「一年くらいは暴れてやります」って言ったのも有名なセリフです。結局日本の弱点はエネルギー資源のほとんどすべてを輸入でまかなっているために、石油抑えられないと自滅するんですね。当時はアメリカの経済制裁なども受けていて非常に国が瀬戸際に立たされていたということも忘れてはいけません。
結果的に言えば宣戦布告をせずに奇襲攻撃をしてしまったことになりましたが、太平洋戦争(日本側で言うところの大東亜戦争)は、当時の大本営参謀、瀬島龍三氏によると「あれは防衛のための戦争であった」と仰られております。
歴史的なことについて言及するには、様々な思惑が重なっており、また知られない事実も多数存在することから断言することはできませんが、教育に関してはこの近代史をしっかりと教えなければいけないと思います。
教科書問題なんたらとややこしいこともありますが、今の子にきちんとした事実を教えなくて、どのように戦争に対して考察をしていけばいいのかわからないと思います。こういうことはきちんと伝えていくべきだし、直視していくべきことだと思います。

今の若い人たちにきちんと見て欲しい映画。戦闘機シーンも大迫力で真珠湾攻撃シーンは圧倒されます。今見てもちゃんと映画として楽しめる作品ですよ。

興味が沸いたなら、ここからの日本の敗戦までの流れと、様々な玉砕戦法、思想統制を調べていくといいですよ。

瀬島龍三

瀬島龍三を題材にした小説「不毛地帯」
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2005年07月05日

フレンチコネクション



これぞ決定版「追跡!」
驚いたなぁ。今まで古い映画って少し偏見があって、ぜんぜんテンポも悪くてだらだらしてておもしろくないだろうみたいな考えであまり見なかったのですが、最近DVDが安いこともあってちょくちょく見てます。
これはジーン・ハックマンの出世作。彼はダスティン・ホフマンと同期らしくて、同じように30過ぎてから出世しだしたということらしいのです。遅咲きというのかはわからないのですが、今で見るジーン・ハックマンと71年作のこの映画に出ているジーン・ハックマンの迫力となんら差異がないところがまた凄さを感じました。普通、俳優には成長の過程があって、それを追いながら見ると楽しかったりするのですが、自分の好きな老練のジーン・ハックマンとなんら違いがないところに圧倒されつつ最後まで見てしまいました。
映画はセリフが少ないかなと感じるくらい、とにかく追う、追う、追う、追う、追うの連続で、なんだかすべて追うシーンのような感じもするのですが、追う中に逃げる人間と追う人間の駆け引きがたくさんあったり、緊張感の途切れぬ展開でぽんぽんぽんぽん進んでいくので飽きることがない。ただ、画面がぶれるのでちょっとだけ目が疲れます。
自分はこういう元祖追跡映画みたいなのは初めて見たのでとても新鮮に写りました。電車高架の下を車で爆走しつつ逃げる電車を追うシーンは、そんな無茶な、とか思ったりしましたが、とにかく執念深い。執拗に追いかけます。その執念深さが致命的なミスを犯したりします。最初のサンタと刑事の組み合わせはちょっと斬新。あ、そういえば昔「リンダキューブ(3)」ってゲームがあったの思い出した。関係ないけど。
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2005年06月06日

熟れてゆく夏

発行:文芸春秋

ああ、まるで梅雨のよう
 じとじとしている。じめじめではない。それよりも乾いてはいるが、「膿んでいる」のが全体的な雰囲気として上げられる。書評は後書きで本に書いてあるからしない。だからせっかくだから個人的なことを書く。と、言っても本のことだが。
 非常にイライラしていた。いつもならすらすら読める文章が、この人の文章だとなかなか頭の中に入ってこない。二日も三日も同じところを読んでいたがそれでも頭の中に入ってこない。後書きを読んでようやく確認できたほどだった。なぜだろう。この三篇の中に出てくる主人公の女性には共通して「トラウマ」とも言える、ある種の傷が存在する。与えられたもの、覚えてしまったもの、意味不明なもの。この三種の傷がそれぞれの主人公を彩る。藤堂志津子さんの文章力はまるで詰め込みすぎた弁当箱のようだ。自分にとってはそれはあまり美しいとは言えない。一体何を読んだかさえもよく思い出せない。とにかく息苦しい。
 「鳥、とんだ」では、男性への疑念とそして「どうして信じさせてくれない!」というセリフにもあるとおり、己が抱く相手への理想と期待によって自滅していくさまが描かれている。中に出てくる耳が腐食していく犬が、それに気がついているのかそうでないのか、処方された薬を省いて餌を食べ続けるように、まるでその飼い主も己の抱く「病的」な相手への疑念と重なっていく。あまりにもあんこが詰まっているので最後にお茶を出されてもちっともすっきりしない。どの編もそこから先の主人公の変化があるのだろうが、どうにも中にじとじとしたものが詰まりすぎているような感じがする。私自身はそれを含めた文章の詰め込み具合が、自分の脳みそのキャパシティーに合わなかっただけの話なのかもしれない。
 「熟れてゆく夏」は第百回直木賞受賞作だ。最初は藤堂志津子という作家は詩人から始まったらしい。作中に出てくるあらゆる暗喩を含んだ詩がこの話すべてを掴み取っている。タトゥーのような過去の記憶が消えないままに体に刷り込まれている。その記憶を嫌悪をもしている。まるで熟しすぎた果汁を集めてミックスジュースを作ったみたいに嫌な味がする。熟しすぎた果実はやがて土に落ちる。土に落ちた後には腐って種を土へと返し、新しい芽を出す。ミックスジュースを片手にしながら、土の上に落ちた潰れて腐りかけた果実をじっと見ているかのような心境になってくる。まるで幻想と現実の境目がなく、ぼんやりとまとわりつくような何かの中で得体の知れないものがうごめいているかのような気持ちになる。これはアメーバのように動く果実と例えた方がいいかもしれない。
 「三月の兎」は三月に意味不明の発作を持った女が出てくる。実は私も意味もわからず非情に不機嫌だ。何故こんなに不機嫌なのかもわからずに、その正体をも見極めずにこの文章を書いている。まあ、どうでもよくなってきている。自分の惨めな姿、耐え切れない痛み、そんなものを麻痺させるためにもっと痛みを感じる行為をする。その類の女性がたくさんいる。今の時代男女問わずだが、言わば愛の飢餓者たちだ。大人となるともはや周りに責任は押し付けられない。それは子供だけで充分だ・・・が、そのような行為をする人間は体だけが大人になったに等しい。どこかで、子供になり損ねた心を過去に置き去りにしている。だから、何か決定的な部分が欠けている。それを理性や「常識」などといった表面上の取り繕ったもので覆い隠す。実のところは子供なわけだ。誰をも責めることはできない。膨張と縮小を繰り返す制御できない精神は誰が救えると言うのだろうか。


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2005年06月01日

白い薔薇の淵まで

発行:集英社

純粋すぎたら死んでしまう
 第十四回山本周五郎賞受賞作。私自身は同性愛者については理解があるとは言わない。だが、別に人がやる分にはかまわない。私にさえ迷惑がかからなければいいのだ。最初は官能小説系の作品かと手に取った。個人的には自分で優れた作品を探す金銭的な余裕がないので、すでに評価が下されたものを多く買う。読んでいてとても取材程度のものでは補いきれないほどの細かな心理描写が全編にあふれ出てくる。もし、取材だけでこれだけの文章が書けるのならば、本物の天才だろう。この文章はかなり生活に密着しているか、もしくは天才かのどちらかだろうと思ったが結論は最後のあとがきを見るにあたり前者だった。私は男なのだが、レズビアンを相手にするとえも知れぬ嫉妬心が沸き起こる。一体なんなのかはわからないほどに嫉妬する。気持ちがわかるとまではいかないまでも、(以下は想像するにだが)同性愛に陥ると、異性の「性」というものがとてつもなく物質的に見える。同性同士の細胞は似たような物質でできているために本当に共鳴しあうのだろう。そこには同質でいて、かつ異質な心地よさと完全なる異物ではない安心がある。きっと他の性など「異物」に感じるのは、異性同士のセックスがあまりにも義務的で滑稽に感じてしまうからなのだろうと思う。まあ、これは想像の範囲を出ない。

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2005年05月29日

泳ぐのに、安全でも適切でもありません

発行:集英社

マシュマロのような恋愛事情
とても不思議な感じがする。十人の女性の主観的な視点から、男女の事情を書いているはずなのだが、鋭利な感じはまったく受けず、とても柔らかだ。まるでこの小説の空間隅々まで「江國香織」という液体で満たされている。しかもその液体はとても柔らかく、弾力性のあるものだ。なんとも表現しがたく、それでいてしっかりしているような感じがとても変な感触を自分に味合わせる。読む人が読むとてもつまらなく感じるかもしれない。でもその「つまらなさ」というのは、「斬新で鋭利で生々しい恋愛事情」というものを文字そのものに期待しているせいではないのだろうか。この作品には直接的にはそのような印象は受けない。あらゆるものが優しく包み込まれているせいで、生々しく鋭利なことがとても暗喩的に表現されている。そこがとても不思議な感触を受ける原因だと思う。

以下、各ストーリー

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2005年05月27日

宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション(中)



発行:文藝春秋
※注意:推理小説というジャンルに関しては、読む前のネタばれを恐れる人がいるので、気にしない人だけ見てください

今回の編集は、男と女を取り巻く事情、男と女同士の事情に絞った短篇集。「悪女を描く時、清張さんは手加減しませんでした」と宮部みゆきさんは書いていますが、この中で出てくる一番の悪女は「書道教授」の中に出てくる水商売の女。一番悪いのは男なのですが、その男の浮気の事情に漬け込み漬け込み、もはや犯罪と断言していいほどの行為を行います。宮部みゆきさんは前半を「淋しい女たちの肖像」後半を「不機嫌な男たちの肖像」とまとめていますが、男も女もどちらともすがり付き合っているので、色恋に関しての事情は片思いではない限り、ほとんどは皆淋しいのではないかと思うのです。
「不機嫌な男たちの肖像」は、社会に飲まれる、また社会の権力や力に飲まれ翻弄され、その中で身勝手に振舞う人間たちの肖像と言ってもいいほどです。なにせ漠然とした事情の中で漠然と事件が起こるような感じです。この中での一番の悪は「保身」ですね。はっきり言ってしまえば「責任を取らないことが一番悪い」のですが、社会と言うのはどうにも「正義感」を通していくにはとても生きずらい。特に組織という中にいた場合、組織の一員でいる限りは組織の意向に反することはなかなかできない。別に闇の世界とかそういう話じゃなくて、実際会社に入っても似たようなことが起きます。ようは理不尽なんですね。

以下
「遠くからの声」
「書道教授」
「カルネアデスの板」
「空白の意匠」
「山」

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2005年05月21日

マークスの山

発行:講談社

おまたじゃくしは踊る。
人伝えに聞いた話だが、高村薫さんは「ミステリーを書いているつもりはない」と言ったそうだ。なるほど、この本を読むとミステリーではない。犯罪の仕掛けや犯人像よりももっと男臭い小説で、人間感情がとてもリアルに描かれている。肝心の犯人は最初の方でわかるのだが、いわゆる精神病である。現在の日本の刑法では第三十九条の条文により、心神喪失者は罰しないことになっている。この犯人は結論から言うと犯人が逮捕されても徒労に終わる・・・と言ったら変だろうか。たとえ何十人犯人が殺したとしても心身喪失状態なのだから罰せられないということなのだ。これは悲しい運命とも言うべきなのかどうかわからない。最初から何か虚しさを感じる。こんないかれた犯人でも愛してくれる優しい女性がいるのだが、人によってはこの女性にこそイラダチを感じるかもしれない。もう、誰をもとがめる事ができるような状態ではないほどに、様々なことが駆け巡る。特に権力機構が絡んできたり、底に固執する人間の邪さや、権力機構の中で生きる人間の憤りが見える。
そもそも男と言うのは本質的に暴力的なのではないかというのが私の本音だ。この小説の中で生きる刑事は、とにかく狙った獲物を追い続ける。「何のためにこんなことをしているのか」という本人たちも気がついている虚しさすらも引き裂いてしまうほどの闘争本能むき出しの感情は、男を描く時ならではの書き方だ。
男なんてつまらないプライドで動いていると言ってはいけない。基本的に戦っていなければどうしようもなく空回りしてしまう生き物なのだ。この小説ではその闘争の対象がたまたま殺伐としているだけで、形を変え、方向を変え、世の男たちは戦おうとする。それが男なのだ。
意思や感情とは別に、少なくとも体や皮膚に刻まれた記憶が反応するはずだ

心理戦が非常に巧みな一面を見せるこの小説だが、犯人を問い詰める際に出てくるこの文章はこの小説の中で動くすべての人に当てはまる。それだけに、ある意味切ない。その半面、小説の中で重要な位置を占める唯一の女性、犯人の恋人の気持ちがこの小説にたったひとつの救いを与えてくれているような気がする。

読み終わって、この小説は一体なんなのかを考えさせられる。主人公合田が言うセリフの場面でこんな文章がある。
「〜命がかかってるから、その分何か特別な仲間意識のようなものがあるのは感じる。いい意味でも、悪い意味でも。案外、閉じられた狭い世界なのかも知れんな」
「私らみたいだ」
森は一言いい、虚空に向かって軽く嗤った。

何かこの部分が小説すべてを物語っているような気がする。この小説そのものがこの一場面の文章なのだと。まるで滑稽な自分たちの位置や周囲の状況を嘲笑するにはあまりあるが、その中で生きるしかないのも自分らなのだという気持ちがくみ取れる。組織の中で生きる人間。権力、己の保身、プライド、あたかもつまらないものに固執して動いているには誰なんだ。嗤うにも嗤いきれない彼らの苦悩は私らの日常にも深く浸透してくる虚しい問いだ。
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2005年05月15日

新たな法体系システム





諸刃の剣になる恐れは充分にあるし、従来の法律の概念を充分に逸脱した危険なシステムであることは間違いないが、現在の法システムは果たして巧妙化する犯罪に対応しきれているのであろうかと言う疑問から、トリガーシステムの法律を作ればいいと考えた。
それは、案件を挙げておいて、何らかの事件発生とともに法律効果を発揮するというシステムだ。
ネットやアンダーグラウンドの犯罪は逃げ足が勝負だ。
多くの被害が出てからようやく法律を作りましょうと言うのでは経済的な損失はあまりにも多くなる。
これからより国際化となると、どんな犯罪が発生するか未知だ。
特にこのような事件はネットを使った犯罪や、機械、プログラム、システムのすり抜け、国家間の法律の差などをうまく使った場合に発生する。
トリガーを作る機関を設置し、そこは民間の法律家などから人員を組織する。
そのトリガー機関を監視する機関を設置、民間人から入れ、案件をあげる前に案件として妥当かどうかを審議する。
どちらも定期的に入れ替えを行い、一度所属した人間は入れないようにする。
トリガーはトリガーの段階では法律効果を発揮しないが、事件発生とともに国会か、もしくは警察機関か、最高裁判所の特設機関(これも新たに設置)の承認により法律効果を発生、事件を追うというシステムになる。

個人情報保護というのも正規の情報かどうかを確認する情報への信頼性を高める何らかのシステムを作ればいい。
例えていうならば、JIS規格みたいなものだ。
情報と言うものが、確かにその会社が合法的に仕入れ、その会社独自で扱っているものだと言う言わば指紋認証システムにも似たシステムを作ってしまえばいいのだ。
そうすれば、いちいちダイレクトメールがどうのこうのとか詐欺電話がどうのこうのと言わなくてもいい。
電話については液晶で表示できる。
そこで非合法か否かを知らせばいいのだ。
例えばそれはまるPマークみたいな(personalの略)、ちょっと安易なマークだが例えばだから許して。
そのマークがなかったりすると非合法、そして、マーク偽装は重罪なんてのがあったら企業も個人情報保護だけに莫大なコストをかけずに済む。
電話会社がそのような情報認証機関みたいな子会社を作ればちょうどいいのではないでしょうかね?
posted by ハヤブサ at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月02日

宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション(上)






※注意:推理小説というジャンルに関しては、読む前のネタばれを恐れる人がいるので、気にしない人だけ見てください

宮部みゆきさんの解説つきの短篇集。当時の編集者の文が最後に寄せられています。私は松本清張さんのからりとして、鋭利な文章が大好きですが、それは並外れた直観力と情報分析からきてるのですね。彼が生きていたらオウムや9.11をどのように見たのか、と宮部さんも当時の編集者も口をそろえたように書いています。この情報化社会。まるで過去が一気に流されてしまうようにどんどん消えていきます。しかし、当事者はこの事件を忘れたくとも忘れられないでしょう。傍観者は体験者と違って、知っているようで、ただ知っているふりをしているだけというのが傍観者なのでしょう。そこへひとつ「観察者」というのが存在してくるわけです。「あれは一体なんだったのか」を様々な資料や、強いようでもろい意思の方向性、人間の弱さ、そういうものから端的にずばずばと書いていくのが松本清張という作家のような気がします。今も苦しむ当事者をかの作家は一体どのように描いたのか、どのように見つめたであろうか、そんな彼の姿と視点を想像するのも楽しいかもしれません。

以下、
「一年半待て」
「理外の理」
「真贋の森」

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2005年04月27日

目に見えない利益



さおだけ屋はなぜ潰れないのか?から。
この中で「百人の友との交友に時間を費やし絆薄く、幅広く付き合うよりも、百人の友を知っている人と深く付き合ったほうがよい」というような内容が書かれてあった。私の知っているお坊さんの説法や禅語の本にも書かれていたが、「来るお客様一人に対して、なんだ今日はたった一人かだなんて思っていたら誰も来ません。それよりも、こんな店にようこそ来てくださったと精一杯の笑顔でありがとうの気持ちを言えばきっとそのお客様は満足して帰っていってくださる。一人一人のお客を大事にしてこそ商売繁盛の秘訣があるものです」ということを聞いていたので、「百人の友を知っている人と仲良くする」という点にはぴんと来た。そもそも「数値化」するということは、「目に見えないもの」を数値化しているのだから、その「目に見えないもの」を見逃してしまっていてはせっかくのチャンスもどこかへ逃げてしまうだろう。それは「笑顔」だったり、「感謝」だったり、「サービス」だったり、するわけだ。「心からの笑顔は最高のサービス」とも言われるが、「たった一人でも誠心誠意尽くす」ことは、「彼の知っている百人の友も同時に大事にしている」ということにもなるだろう。私も最近ふと思い出して、心がけているのが「愛情」なのだが、どうも辛辣な性格が幸いしてかいまいち理解されない・・・と思っているところがすでにわがままなのだろうが、閉塞感は補えない。私事になってしまったが、ともかくも「お互い」気持ちいい関係でなければ、片方がどんなに笑顔でいてもその笑顔を奪ってしまいかねない。愛情は一方通行では潰されてしまうのだ。極端に言えば、さすがの愛情も百日の無視には耐え切れないのだ。お互い気をつけましょう。
posted by ハヤブサ at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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