2005年09月15日

人口上限取引

現在二酸化炭素の排出量の上限を各国で取引し、ビジネスとして成り立っているのは有名な話だが、これからの地球・・・むしろ人類そのものの問題として人口の問題は必ず焦点となってくる。
この問題が末期に達する時に、必ず各国は人口の上限を売買し、決められた人口上限を上回る国には経済的なペナルティーをかす条約が締結されるであろう。
この上限の取り決めは、各国のGDPなどの経済的な指数と人口そのものの数字からはじき出されることとなる。
これに、インターネットがおおいに活躍することとなる。
各国は特別なラインを通じてやりとりをすることになる。

人口の上限売買に関して各人権団体の人権侵害への強いデモ化が起こり、各国での活動が激しくなる。
だが、全世界レベルでの条約となり、人口上限売買条約は締結される。
電子化が進めばテロの方向性も変わる。
物理的な攻撃よりもサイバーテロへとシフトされる。

城を攻めるは愚計、心を攻めるは上策。

テロを止めたいのならば、コミュニティー作りとその各々の繋がりを強化させる作を考えるのが上策と私は考える。
posted by ハヤブサ at 06:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 勝手な妄想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月14日

ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン



知らなくても凄いです
ファンには感動物の超大作。
実は私、このゲームをやったことがない。
だから細かなバックストーリーがわからないのだが、それでも充分に楽しめた。
特にこの世界観は、剣と銃が合体していたり、メカが格好よかったり、それでいて魔法も出てくるという近未来型ファンタジーで、とにかく設定が斬新かつ格好いい。

続きを読む
posted by ハヤブサ at 21:45| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月10日

アイ、ロボット



ロボットと人間との共存
近未来のSFXムービー。人型ロボットは家庭での様々な人間の助けをしているぐらいロボットと人間との親密な付き合いがある。ロボットには三原則があって、人間に危害を与えてはならない、人間の命令に従わなければならない、前二条に反しない限り自己を守らなければならないとある。
新型ロボットが出現し、その父とも言える博士が死亡したことから話は続いてゆく。話の内容はゆっくり見て欲しい。
さて、色んな話で問題になるのが、結局人間って有害なんだよねってロジックの結論。増え続ける人口問題や、それに付随してくるエネルギー、食料、環境、様々な問題が人類全体の問題として持ち上がってくる。この映画自体ではそれほど問題にはならないけれど、とあるコンピューターはきっとこのことを考えたんじゃないかと・・・って誰のことを言ったかはネタバレになるので書きません。
これから先、「意識を持ったもの」に対してどのように接していくのか、法の取り決めなどが決められていくと思うけれど、きっとそれは私が死んだ頃あたりの話になるでしょう。少なくとも最初はロボットではなくて、「意識を持った生命体」への話になってくる。

映画自体はよくありがちなって感じじゃなくてちゃんとアクションもしてるし、問題も提起している。ドカーン!バキューン!バラバラ!おしまい、って感じじゃない。あくまで論理にこだわる女博士と主人公の対比もなかなかおもしろい。人間って一回「害物」って思ってしまうとなかなか両者の溝を埋めるのは大変になる。拒否反応が連鎖的に広がるのは、古今東西、そして未来永劫人間が人間である限りなくならないと思う。ちらっとおもしろかったのがロボットのセリフで、論理的に考え忠実に論理に即して行動することは「心無い」って言っているあたりもおもしろかった。心とは何か、問題は人間そのものにあるということをいつまでも戒めとして覚えておかなきゃいけない。このあとに手塚治虫原作の漫画を映画化した「メトロポリス」も合わせて見て、人間が生まれ持って抱えている問題そのものを考えて欲しいなと思います。

メトロポリス
posted by ハヤブサ at 03:44| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月11日

戦争映画

いつか、大東亜戦争(日本人としてあえて、こちらの名前で呼ばせていただく。否定しても、日本人であることは変わりがない。そこからまずは考えたい)を、まったく違った近未来型の話として作りたい。
自分が生涯の中でやらなければならない仕事だという気がしている。
そのためには、早く出世して、戦争体験者の生の話をできるだけ集めなければならない。
時間は少ない。
posted by ハヤブサ at 02:20| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生きて死ぬ智慧

発行:小学館

般若心経入門の最高の書
 般若心経をわかりやすく訳した、とてもシンプルな本。イラストも綺麗で今までちょっと般若心経の本を手にとってもぱっとしなかった人はこれが最適の本になることは間違いない。ここまでシンプルでわかりやすい本は他にはない。見やすく、綺麗。現代風に書かれているのでまたこれもとっつきやすい。
 最近の物理学はおもしろい。特に粒子に関する本の中で「僕らは存在と言うものに関してどう定義するか、という問題について、まずこの本では触れないことにします」という前置きがあるのがおもしろい。結局、原子を構成する陽子、電子、中性子があって、さらにそれらを構成している粒子が見つかって、内容はよくわからなかったが小柴さんなどが素粒子の研究においてノーベル賞をもらったりした。
 粒子というものは、写真のように静止した空間には確かに存在しているが、常に飛び交っている。次の瞬間にはどこかにぶっ飛んでなくなってしまっているのだ。それを物理学が発見して、「じゃあ、物の大元が静止していない、不安定な状態なのだから、存在するってどういうこと?」と、学者は混乱しているわけです。これが文学系の博士じゃなくて、理系の人が証明してしまった。科学的解釈とはそのことをさしています。
 人は五感によって他者と自分を区別しています。つまり、感覚があるから自己を認識できる。しかし、僕らも宇宙も結局「粒子」でできあがっていますから、他者も自己も石も木も宇宙も地球もなにもかも同じなわけです。それをはっきりと他者と自己を区別しているのは、感覚からによる内的精神活動のためです。もっと言えば「個の保存」です。だって、他人のこと自分だ、あいつもこいつも自分だって思ったら生きていけないわけですから。
 色即是空、空即是色がすべてを物語っています。簡単に言えば「あるからなくて、ないからある」ってことです。苦しみや恨みや悲しみや知識などはすべて五感の生じるところであって、あなたの感覚がなければすべては存在しないでしょう。だけれど、すべてがない感覚こそこの宇宙を含むあなたの存在なのです。というのが、これ。悲しみも恨みも感じる感覚がなければそれは存在しない。感じないでいることこそ、すべてを感じる第一歩です。生まれるから死に、死ぬから生まれる。結局は一面的で同じこと。そういう痛烈な二律背反が般若心経の世界なんです。
 五感ってなんでしょう。生命ってなんでしょう。死ぬとか生きるとか、常に二律背反が僕らの宿命としてあるわけなのですが、私たちはどうしてもはっきりと結論を求め、区別したがります。もっと言うならば「自分を満足させるために自分を納得させる理由を求めずにはいられない」生き物なんです。そう考えると、人間の感覚ってナンセンスです。
 私は「同情」と「思いやり」の違いについて考えていました。「同情」はとても内向的な気持ちです。その気持ちはむしろ相手よりも、自分自身に向いている。自分の感覚が結局内側でぐるぐる回ってそこから「ああ、相手って、痛いだろうな」っていう感覚が「同情」。でも、「思いやり」は、もっと自分を越えたところに存在するんじゃないのかなって思います。自分の体験以上の物事をくみ取り、相手への推量ができ、そして相手が喜ぶことをできたならばはじめて「思いやれる」のだなと考えたりしました。
 とにかくこの本、宗教臭さがぜんぜんなくとっつきやすい本です。これはオーラ指定の本ですよ。
posted by ハヤブサ at 00:25| Comment(6) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月10日

フルメタル・ジャケット



あら、戦争はたのしや
 ベトナム戦争を描いた、スタンリー・キューブリックの作品。内容は、皆さんはどうとられるかはわからないが、私は痛烈な皮肉として取った。まず、軍隊式のテンポのよい叫び声のセリフや替え歌と汚いスラングの数々。選曲までもが、楽しげなものとなっている。
 普通、理性があっては人殺しはできない。映画の中で教官も言うが、純粋に殺しができなければ人は殺せない。アメリカは常に「正義の戦争」と言う。戦時中に自国の戦争を否定する国家などありえないが、兵士も「これは正義のための戦争」ということは思っているはずだ。つまり、敵を殺すことそのものに「英雄的な気持ち」が芽生える。これは、ある一種の殺しへの理由付けと、快楽だ。悪人を殺し、正義を導き、祖国で称えられる英雄になる。そのためには多くの「敵」と呼ばれる「人間」を殺す。人を大量に殺すのに「心の迷い」は不必要だ。もし、迷えば自分が死ぬ。国家と言う大きな権力に動かされ、戦場に赴き、敵味方入り乱れての「正当防衛」をするわけだ。
 鉄の心が引き金を引き、弾が勝手に人を殺すと思えるようになるまで、純粋に殺人兵器を培養していくその過程が恐ろしい。結局はこういうことだろうか、「お前たちはこの世界にいかに迷いなく育てられる道具だ」と。
 主人公は胸にピースマーク、ヘルメットに「Born to kill(生来必殺)」と書かれた、軍隊の新聞記者になるジョーカー。人間の表裏一体の姿がこの映画の一つのテーマ。もっと言えば物事の表裏一体性がテーマになるだろう。
 前線の兵士には「平和への願い」など不要だ。参加中の兵士はいかに協力して「敵を殺していくか」が重要になる。弾が飛んでくる中で、一人だけ「人を殺したくない」などと思われても迷惑をするだけだ。その感情を排除するために、前半の養成所のシーンがある。「一人ドーナッツを食えばお前以外の全員が腕立てだ」というシーンが如実にそのことを皮肉めいて描いている。
 血も涙も凍らせたような地獄で理性を持つことは逆に人を不幸にする。大きな迷いが人間を完全に破壊するからだ。事実、理性が人間を破壊するシーンが前半にある。かと言って、理性のないまま生きられるかというとそうではない。世の中に「価値観」がある限りは争いはなくならない。もし、「平和論者」が「戦争支持者」と争いを始めたら、もう「平和論者」は止めた方がいい。そして「平和論者」が平和を唱え、願っている間に、争いが悪化してすべての状況がどん底になったならば同じように「平和論者」は止めた方がいい。もし、殺人者を許したとして、その人が許した後で他の人間を殺したならば、その許した人間は死者に対して責任は持てない。私たちは、物事はよく考えるかもしれないが、その後のことはあまり考えていないことが多い。戦場から早く帰るために、敵を殺すか、精神がいかれるか、負傷するか、誰かが傷つかなければ戦場から帰る平和は望めないと言うのは皮肉なものだ。
 この映画を見るならば、なぜジョーカーが最後にああなったのかということを、彼そのものが提示した「物事の二面性」から考えて欲しいと思う。他のベトナム映画とはまったく違ったタッチで描かれている作品です。
posted by ハヤブサ at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月02日

ガイアの夜明け サッカービジネス

今日放送のガイアの夜明けという番組でサッカー選手のチームとチームの橋渡しをするサッカーエージェントよ呼ばれる人々と、その背景で動く巨大なマネー、サッカービジネスを特集していた。
もともとこういった選手を商品として扱う人々は各スポーツ界にいて、大リーグなどでも活躍しているのだが、サッカーは世界的に人気のあるスポーツ。つまりワールドワイドビジネスと言うことになる。

見ていてひとつ気になったことがあった。「人材ビジネス」についてである。日本においての人材ビジネスは海外ほど活発ではない。それに、日本はこれから平気で税金がたかくなる。とてもじゃないが、日本にいれなくなる。優秀な人材は日本にいるということ自体が不利になる。利益が国に吸い取られるからだ。
これは将来的に何を意味するかというと、日本の人的資源の空洞化の危険性がある。つまり、もっと「引き抜き」が活発化してくれば、日本の優秀な人材は海外へと引き抜かれていってしまって、日本国内に残らなくなってしまうと言うことである。これは、日本の窓口の狭さや人材流通システムの不備、そして一番のネックが税金ということになる。
日本には人事において「動的」な性質がない。これはいかにシステムが優れていようと、優れた人材に対して「仕掛けていかない」という一番のデメリットを意味する。それは言い換えてシステムの死である。この不備をただし、人材システムを活性化させるには、どうしても賃金の面や仕事に関しての「評価の見直し」が迫られることは言うまでもない。どう転んでも、「評価主義」に社会は傾く。これは海外の会社を相手にするうえで避けられない事態となる。そのうえで、あたかもスポーツ選手を引き抜くかのように人材を獲得していく。そうなってこそよい意味での流動化が生まれると私は思う。職場の仲間がうんぬんとかチームでの仕事うんぬんという批判はあるかもしれないが、一番の問題は「本人が納得し、そして充実して仕事に取り組めるか」ということが一番大事なのだと私は考える。そういう考え方が日本にはまだ馴染んでいない。個人は会社の歯車ではない。個人は個人だ。それが人権だ。それを最大限に生かすにはどうすればよいのかを真剣に考えていかなければ、人材の空洞化、もっと言えば、日本の経済貧困化が生まれる。人材力は即ち国力だからだ。
国のことを考えるならば、個人のことから考えなければならない。我々は民主主義社会に生きているんでしょ?ですよね?
posted by ハヤブサ at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月31日

ロード・トゥ・パーディション



親父とはかくあるべし
 ポール・ニューマンという銀幕においての伝説のスターと並んで引けを取らないほどのトム・ハンクスの演技が最高の一品でございます。説明書きにもあるように「ギャング映画」とはあるものの、いわゆるダークでねちねちしたような部分はない。と、言っても殺害シーンは多々ある。それもえげつないほどの描写ではない。それほど暗い感じを受けないのは息子が出てくるせいだろうとは思うが、この映画には二人の父親が出てくる。ポール・ニューマンとトム・ハンクスなのだが、対照的な親として描かれている。もちろん子供も対照的だ。どちらの子供も親を愛していると言う点では同じだが、どうにもポール・ニューマンの息子は出来が悪いということで描かれる。やはり古今を問わず、子供は自分よりも、他の誰かをより愛していると感じた時、激しい憎悪と嫉妬とともにぐれるものだが、やはりこの映画の子供も見事にぐれている。ぐれている、という表現はぴったりではないかもしれないが、写し方もシナリオも嫉妬を描いている。
 一方、トム・ハンクスだが、子供がわりとさばさばしている。まあ、家族を殺されて逆に悲痛のどん底にいたのならば話はがらりと違ってくるのだろうが、そのさばさばしたところや振る舞いが逆に話しにユーモアを与えている。しかし、トム・ハンクスという役者さんは人に愛されるべくして生まれてきた役者のようにも思える。コメディーからシリアスまでなんでもこなしてしまうのですね。演技も相当細かく、人間味豊かで叙情的だ。動きだけであれだけできる役者もいない。
 最後の方でポール・ニューマンが雨の中で振り向くシーンがあったが、鳥肌が立った。最初映画館で見たときは、「ああ、この人は映画のために生まれてきた人なんだ」とつくづく思ったものだった。
 ジュード・ロウ。殺し屋の役で出てくる。「A.I.」でのジゴロ・ジョーやスターリングラードなどといったジュード・ロウを知っているのならばちょっとびっくりするかもしれない。猫背で髪が薄くて怪しげな死体写真家のこの役を見たならば、ジュード・ロウのイメージもがらりと変わるはず。不気味で、執拗な暗殺者に身の毛もよだつ思いがするであろう。彼の髪、わざわざ一本一本こまめに切って薄くしたそうだ。つまりズラ使用ではない。カツラで代用してもそれほど不自然には見えないはずなのだが、そこまでやる役者魂に感動した。途中のレストランでコーヒーに砂糖入れすぎですよ!どうやらこの暗殺者は甘党のようだ。
 最初と最後のシーンで同じセリフが使われる。子供が親を見る視点は同じで「尊敬の念」がある。が、子供が自分自身を見る目が違うように思える。父を誇りに思うのか、それとも邪魔っぽく思うか。何故違ってきてしまったのだろうと、対照の親子を描く映画を見るときにいつも考えてしまう。父親はそこにいるというよりも、もっと子に対して示唆を与えるべきなのではないのか。尊敬すべき親がこの心に宿ると子は立派に育つと思う。最初と最後のセリフの意味を深く考えておきたい。
 役者の演技が相当細かいので注意して演技を見ていないと感情表現の多くを見逃すが、それだけにこの映画の凄いところは「細かな動き」で「感情」を魅せているところだ。それをセリフに凝縮させている。
posted by ハヤブサ at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月26日

時計仕掛けのオレンジ



世界はこの原理でできている
排他的で、暴力的で、享楽的で、センセーショナルな主人公が暴れる暴れる。
セックスや暴力、己の快楽に忠実に生きているアレックスくんなものだから、映像も見る人にとってはえぐい。
もちろんそういうシーンがたくさん出てくる。
この映画の中には造語がたくさん出てくる。
日本語が奇妙に変形して造語が作られるように、この映画の中でも英語や固有名詞が変形したりしてある意味を持ったりしている。
とにかく新しく強烈なイメージなのだろうが、原理は古い。
というのも、いつの時代にも人間の営みがある限り「本能」とは切っては切れない。
例えば男ならばセックスが嫌いで女性の体も好きじゃないとなればちょっと病気だと思ったほうがいいし、そうでなくても実生活で「便利」や「快適さ」や「出世欲」や「充実感」「食欲」などといった、言葉では具体的には限定できない精神的欲求を満たす行為はつまり、他者の精神的欲求を奪うというアンチテーゼを含む。もしこのことがわからないのならば、あまりにも他人があなたに提供している様々なことを考えたことがない人だろう。これが大きなサイクルであり、大自然の法則でもあるが、その循環システムは人間の中にも数多く存在している。奪ったものは、結局奪われたまま返ってくるということだ。
この映画の中では様々な命題が含まれるが、ひとつだけでまとめるとすれば「人間社会の中で真に道徳的な状態はありえるか」ということなのだが、犯罪人を強制する段階で条件反射で心を強制する。つまり、犯罪のイメージと肉体的苦痛を結び合わせて、犯罪的行為を行う時に体に苦痛が起きるように体内に教え込ませることで道徳的な人間を作ると言うことなのだが、手段からして道徳的ではないということなのだ。
セリフの中にもあるが、選択の自由が奪われる人間を創り上げることは道徳的といえるのかとある。ここで一つ考えて欲しい。映画の中ではナチの映像も出てくるのだが、ヒトラーは人権を奪った。ユダヤ人を大量虐殺した。アーリア人への混血を嫌悪した。そして逆説的に他者から自由を奪って欲求を満たした。詳しいバックグラウンドの説明はよすが、簡単に言うと、支配の中には自由はない。さあ、理性的な社会の中と、人の欲求の中には選択肢はあるかという問題だ。私はあるようでないと思う。結局人々が望む枠内で収まる。それは自由なのだろうか。自由とはなんだろうか。これ以上はよす。
せっかく道徳的な行為を強制的にしろ行えるようになった主人公は、以前の数々の悪行に対して人々からその報いを受けろとばかりに仕返しをされる。ここでもひとつ問題がある。私は常々思っているのだが、腐ったみかん箱の中に新しいみかんを入れてもただ腐るだけだという持論がある。ラストのシーンまで向けてはたして犯罪を行っているのは誰なのかというのが大きな問題だ。
この世は常に人間のよこしまな感情で動いているのだ。
我々は気付かなくとも残酷な行為をして生き延びているということを忘れてはいけない。

難しい話をしたかもしれないけれど、これは今見てもおもしろいかも。
ただ一番最初に言ったとおり、暴力的なシーンとセックスシーンがあるためにえぐく感じる人がいるのも確かだから、苦手な人は止めた方がいい。
撮り方も音楽の使い方もキューブリックという監督は天才の域を極めていると言っていい。
posted by ハヤブサ at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月23日

カンフーハッスル



見た目じゃないのよ。人は。
 少林サッカーよりもこちらの方がおもしろいかもしれない。ただ、雰囲気もがらっと変えて、本場のアクションが満載なのでギャグっぽいところもジャッキーのアクションみたく真面目に見入ってしまう。こちらの方が完成度は高い。CGもうまい。ドラゴンボールのような感覚で見れる。少林サッカーとキャストがだぶっているので、最初は「え?つづきものか?」なんて思ってしまいますが別の話です。セリフもちょっと引っ掛けてあったりして間違ったんですよ。
 前作で私がネックに感じていたような、各キャラクターの活躍も非常に生かされていて私自身は高得点あげたい。各キャラクターの感情表現も豊かです。やっぱり最強とは見た目にあらず、オーラであるということがわかるのです。いかにもハゲ頭のヅラかぶったカトちゃんみたいなおやじが出てくるのだがそれがラストボス。鋼鉄の扉を開けたときに「あんたも好きねぇ」なんて言っちゃったらもう完全にコントになった。
 やっぱりこの作品でも泣き場を盛り込んでます。「ええ!?そうだったのか」と衝撃の事実がどかんときて涙腺の弱いあなたは涙すること間違いなし。まあ、あれだけキャラクターが濃くてギャグばっかりやってるのに、あまり笑わなかったのはアクションを生身でやっているせいだと思う。ついにここまでやったかという感じです。オススメ。

少林サッカーとセットで購入
posted by ハヤブサ at 00:56| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。