2005年06月01日

白い薔薇の淵まで

発行:集英社

純粋すぎたら死んでしまう
 第十四回山本周五郎賞受賞作。私自身は同性愛者については理解があるとは言わない。だが、別に人がやる分にはかまわない。私にさえ迷惑がかからなければいいのだ。最初は官能小説系の作品かと手に取った。個人的には自分で優れた作品を探す金銭的な余裕がないので、すでに評価が下されたものを多く買う。読んでいてとても取材程度のものでは補いきれないほどの細かな心理描写が全編にあふれ出てくる。もし、取材だけでこれだけの文章が書けるのならば、本物の天才だろう。この文章はかなり生活に密着しているか、もしくは天才かのどちらかだろうと思ったが結論は最後のあとがきを見るにあたり前者だった。私は男なのだが、レズビアンを相手にするとえも知れぬ嫉妬心が沸き起こる。一体なんなのかはわからないほどに嫉妬する。気持ちがわかるとまではいかないまでも、(以下は想像するにだが)同性愛に陥ると、異性の「性」というものがとてつもなく物質的に見える。同性同士の細胞は似たような物質でできているために本当に共鳴しあうのだろう。そこには同質でいて、かつ異質な心地よさと完全なる異物ではない安心がある。きっと他の性など「異物」に感じるのは、異性同士のセックスがあまりにも義務的で滑稽に感じてしまうからなのだろうと思う。まあ、これは想像の範囲を出ない。

 作品は醜美に溢れている。あまりにも「純粋」な感情のぶつかり合いと吐き出しあい。だからこその「醜」であり、「美」だ。「純粋」すぎると破滅する。ここに描かれているのは何の脚色もない血の通う肉を持った人間そのものだ。愛ではなく、肉体そのものがまるで神経の繋がりあった同質のものとなっていくたびに、「自分」となった相手を他人に触れられることに嫉妬する。「純粋」の結晶で生きる人間は、自己中心的よりももっと鏡のように反応する。感性の赴くままに他者を取り込み、それが綺麗なものだと心を清らかにし、それが醜いものだと荒れ狂い暴挙に出る。つまり、普通の人間があらゆる感情や価値観や思考にある種のフィルターをかけて、そして変化させたものを外に出すのに対して、最も直感的に物事を表現していくのが「純粋」なのだろうと私は考える。作品の中盤では同性相手を否定するが最後の方には結局同質のものだと認める。だが、彼女との出会いも付き合いも最初から同質のものだったからこその深みだった。
肝心なのは宇宙の果てで迷子になったとき、誰と交信したいかということだ

そこには性別など意味がない、とある。結局生命に生まれたからには「死」と「生」の混在なのだ。作品の中で猫が出てくるが、これが犬だったら話がぶち壊しだったろう。聞いた話だが、野良猫は死ぬ間際になると誰も知らない場所でひっそり死んでいくらしい。そういえば野良猫の死体は車に引かれたものしか見たことがない。愛情が深すぎると破滅する。何かのフィルターを通さなければ、まるでオゾン層を通らない紫外線みたいに害を与える。白い薔薇は、その害により色を抜かれてしまった純粋なる薔薇の結晶なのだと感じた。

 途中で彼女結婚するのですがね、もうね、男としてなんとも言えないですね。もしね、万が一相手に「同性愛者なんだ」と言われた時の絶望感。まだ異性を愛しているのならどこかで期待と絶望が混在するものなのですが、これでは絶望しか残らない。そこがとっても残酷な気が・・・しないまでもない。同情する。作品の中ではそのことは明かしませんが。
posted by ハヤブサ at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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