2005年04月21日

悪口の技術

 発行:新潮文庫

実践悪口入門編
平成十五年、一月刊行のものを文庫化したものなのでネタは古い。現代人は情報がすべてなのでわざわざ振り返って考察する人はほとんどいないかもしれない。そういう意味で「もうこの本ってあんまり価値ないよね」なんて思ったらもうおしまい。
悪口の真髄とは「いかに悪口と思われずに悪口を言うか」というところにあるという。さらに笑わせたらもう勝ったも同然。でも、現代人とはなかなか苦労しているようで、「笑わせるだけのいい人」になりはててしまってはやっぱり元も子もない。「本通りになんかいかねえよ!」なんて吠えちゃったら、そりゃあんた他人に使われるだけの「いい人」になろうとしてるだけだろなんて言いたくなる。
ちらりと出てくる国旗国家、法律、豊かさへの価値観、心、などへの問題を出している。口語体なので、だんだんと彼のペースに巻き込まれてくるわけだが、たけし氏からしてみれば、私のやってることなんてまったくのナンセンスに見えるかもしれない。
「バカヤロー」と言われるのが目に浮かぶ。
結局「一方的で自閉的な世界」であることは変わりはないのだ。そういえば、国旗国家問題とは言うが、本の中にあるとおり、オリンピックやワールドカップでは何も文句は言わない。それは「私が勝手に反対してるだけなので」ということなのだろうか。そんなに個人の問題として強いられるのが嫌なら亡命すればいい。なんでそれをやらないでわざわざ強いられるような場所にいて頑なに拒否するのかがわからない。
ソープへ行かないで、いきなり売春してしまう裁判官の話も出ていた。「世間知らないから、ソープなんて考え浮かばないでいきなり売春なんかしちゃうんだよ」と言う。まあ、法科大学構想とか言っても、しょっぱなからこけているようだ。結局もとの場所に戻りそうな気がして怖い。結局真面目な裁判官もどうして時として判決などで世間から批判を受けるかというと、「常識から外れているせい」だが、彼らにとっては「法律が常識」なので、感覚としては「法の番人として法律を遵守した考え方」で判決を出している。それが「世間知らず」といわれるのである。かわいそうに。なんなら税金でソープでも行かせればいい。きっと批判が相次ぐが、「これが健全な社会学習です」と言い張ればいいのだ。法科大学だって「社会に役立つ人材の育成」を目指しているのだから、「前科一犯以上の人材は優遇」とか。学問だけしている人間よりよっぽど社会勉強をしている。昨日まで無罪で今日から犯罪者になるという法律もおかしい。何故だろうと首をひねる。ひねりすぎてきっともげる。
社会で要求されるのは「知識」よりも「知恵」の方が強い。「知識」はあってなんぼなので、より付加価値を求めるとすれば「知恵」となる。「知恵」は基本的には実践にて養われるものだが、知恵の土壌を作ることは実践ではなくともある程度は可能だ。「知恵」とは「創造的な力」なのである。結局、「知恵」の莫大なる人間が、搾取と支配をしていくのはいつの世も変わらないのではないだろうか・・・と私は考えるのだ。そんな中で、裏技がある。「一番おいしいのは君主の友だち」だと言う。確かにおごられる立場が一番強いが、みんながそれ考えちゃったら誰がおごるんだって話になるので、やはりトップは必要になるわけである。ちなみに私はおごりたくないやつにはたぶん絶対におごらない。そういうやつが一人でもいたら「おごる」なんて言葉は口に出さない。その前にそんな余裕がない。「粋がいい」なんていうのは、心にせよ懐にせよ「余裕」がなくちゃ意気じゃいられない。本物のトップにはこの「粋」があるような気がする。
なんだか本当によくわからないあやふやな状態が今の日本かもしれないのだが、「パールハーバー」という映画を見たときは苦笑した。その時は「エンターテイメントだから目くじら立てることもないか」とは思っていたけれど、やや、日系人は騒いだようですね。当たり前か。自分も大人しい日本人でした。今や映像はよくプロパガンダの道具にされている。どこもかしこも「強い意志」の上に物事が作られるのだから、もうあらゆるメディアは「これは作品なのだ」と思って見るしか防御策はない。
この本で一番価値あるのは「物の価値から豊かさを考えると豊かさの概念がめちゃくちゃになる」という部分であると思う。確かに、外食一万、なんてことを考えると、贅沢というのは「エンターテイメント」とほとんど変わりがない。実際、そこでしか楽しめないものを味わいに行くのだから大差はない。外国と比べればとにかくめちゃくちゃ。ブランド物を買うくらいの値段で一年以上暮らせるところもある。そう考えれば価値ってなんだろうなって考えてしまう。
パラサイトがうんぬんって言う記述もあった。パラサイトが多くなれば母体が弱るのは当たり前で、とにかく問題視しなきゃいけない。彼らには土地を与えて作物を作らせてはいかがでしょうか。とにかく勘違いしちゃいけないのは、食料作る人が一番大事なわけで、これをなおざりにしちゃいけない。ブランドがあっても、食料が消えたら死ぬ。逆だったら死なない。土いじり、楽しいですよ、田舎も楽しいですよ。国を挙げて引きこもりやニートをバックアップして自然を学ばせたらいいじゃないですか。嫌なのは最初だけよ。自分で作り上げた食物を口にするって人一倍の感動があると思うのだけれどなあ。
この本の中で「老獪」という言葉が出てくる。広辞苑では「長い世俗の経験をつんで狡猾なこと。世故にたけて悪賢いこと」とある。今の日本の政治家の中ですっとするような賢さを持った人って見当たらない。完璧な人がいかにも隙がありますって見せかけるのはとてもかっこいいとは思うが、どうもそれを勘違いしている人もいてかっこわるい。何かと窮屈なのは、ある意味「創造性」をなくしちゃったからじゃないのかな。「遊び」がなくなったと言ってもいい。
ガウディ曰く「自然に優る想像力はない」と言うけれど、今の日本は「人間の理屈」で動いているような気がする。「自然の理屈」って、自然に理屈があるかどうかわからないけど、人間の想像性は常に自然よりも貧相だということは悟らなきゃいけない。もっと自然そのものから学ぶ余裕がないと、それこそ貧相に成り果ててしまうんじゃないのかな。
「結果さえよければ、手段は常に正当化される」
下策を使えばあとはスピード勝負。二度は下策は使えない。

「笑われちゃいけない。笑わせなきゃいけない」
世界を笑わせたもの勝ちですよね。たけしさん。
posted by ハヤブサ at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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