2005年08月10日

フルメタル・ジャケット



あら、戦争はたのしや
 ベトナム戦争を描いた、スタンリー・キューブリックの作品。内容は、皆さんはどうとられるかはわからないが、私は痛烈な皮肉として取った。まず、軍隊式のテンポのよい叫び声のセリフや替え歌と汚いスラングの数々。選曲までもが、楽しげなものとなっている。
 普通、理性があっては人殺しはできない。映画の中で教官も言うが、純粋に殺しができなければ人は殺せない。アメリカは常に「正義の戦争」と言う。戦時中に自国の戦争を否定する国家などありえないが、兵士も「これは正義のための戦争」ということは思っているはずだ。つまり、敵を殺すことそのものに「英雄的な気持ち」が芽生える。これは、ある一種の殺しへの理由付けと、快楽だ。悪人を殺し、正義を導き、祖国で称えられる英雄になる。そのためには多くの「敵」と呼ばれる「人間」を殺す。人を大量に殺すのに「心の迷い」は不必要だ。もし、迷えば自分が死ぬ。国家と言う大きな権力に動かされ、戦場に赴き、敵味方入り乱れての「正当防衛」をするわけだ。
 鉄の心が引き金を引き、弾が勝手に人を殺すと思えるようになるまで、純粋に殺人兵器を培養していくその過程が恐ろしい。結局はこういうことだろうか、「お前たちはこの世界にいかに迷いなく育てられる道具だ」と。
 主人公は胸にピースマーク、ヘルメットに「Born to kill(生来必殺)」と書かれた、軍隊の新聞記者になるジョーカー。人間の表裏一体の姿がこの映画の一つのテーマ。もっと言えば物事の表裏一体性がテーマになるだろう。
 前線の兵士には「平和への願い」など不要だ。参加中の兵士はいかに協力して「敵を殺していくか」が重要になる。弾が飛んでくる中で、一人だけ「人を殺したくない」などと思われても迷惑をするだけだ。その感情を排除するために、前半の養成所のシーンがある。「一人ドーナッツを食えばお前以外の全員が腕立てだ」というシーンが如実にそのことを皮肉めいて描いている。
 血も涙も凍らせたような地獄で理性を持つことは逆に人を不幸にする。大きな迷いが人間を完全に破壊するからだ。事実、理性が人間を破壊するシーンが前半にある。かと言って、理性のないまま生きられるかというとそうではない。世の中に「価値観」がある限りは争いはなくならない。もし、「平和論者」が「戦争支持者」と争いを始めたら、もう「平和論者」は止めた方がいい。そして「平和論者」が平和を唱え、願っている間に、争いが悪化してすべての状況がどん底になったならば同じように「平和論者」は止めた方がいい。もし、殺人者を許したとして、その人が許した後で他の人間を殺したならば、その許した人間は死者に対して責任は持てない。私たちは、物事はよく考えるかもしれないが、その後のことはあまり考えていないことが多い。戦場から早く帰るために、敵を殺すか、精神がいかれるか、負傷するか、誰かが傷つかなければ戦場から帰る平和は望めないと言うのは皮肉なものだ。
 この映画を見るならば、なぜジョーカーが最後にああなったのかということを、彼そのものが提示した「物事の二面性」から考えて欲しいと思う。他のベトナム映画とはまったく違ったタッチで描かれている作品です。
posted by ハヤブサ at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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