2005年08月11日

戦争映画

いつか、大東亜戦争(日本人としてあえて、こちらの名前で呼ばせていただく。否定しても、日本人であることは変わりがない。そこからまずは考えたい)を、まったく違った近未来型の話として作りたい。
自分が生涯の中でやらなければならない仕事だという気がしている。
そのためには、早く出世して、戦争体験者の生の話をできるだけ集めなければならない。
時間は少ない。
posted by ハヤブサ at 02:20| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生きて死ぬ智慧

発行:小学館

般若心経入門の最高の書
 般若心経をわかりやすく訳した、とてもシンプルな本。イラストも綺麗で今までちょっと般若心経の本を手にとってもぱっとしなかった人はこれが最適の本になることは間違いない。ここまでシンプルでわかりやすい本は他にはない。見やすく、綺麗。現代風に書かれているのでまたこれもとっつきやすい。
 最近の物理学はおもしろい。特に粒子に関する本の中で「僕らは存在と言うものに関してどう定義するか、という問題について、まずこの本では触れないことにします」という前置きがあるのがおもしろい。結局、原子を構成する陽子、電子、中性子があって、さらにそれらを構成している粒子が見つかって、内容はよくわからなかったが小柴さんなどが素粒子の研究においてノーベル賞をもらったりした。
 粒子というものは、写真のように静止した空間には確かに存在しているが、常に飛び交っている。次の瞬間にはどこかにぶっ飛んでなくなってしまっているのだ。それを物理学が発見して、「じゃあ、物の大元が静止していない、不安定な状態なのだから、存在するってどういうこと?」と、学者は混乱しているわけです。これが文学系の博士じゃなくて、理系の人が証明してしまった。科学的解釈とはそのことをさしています。
 人は五感によって他者と自分を区別しています。つまり、感覚があるから自己を認識できる。しかし、僕らも宇宙も結局「粒子」でできあがっていますから、他者も自己も石も木も宇宙も地球もなにもかも同じなわけです。それをはっきりと他者と自己を区別しているのは、感覚からによる内的精神活動のためです。もっと言えば「個の保存」です。だって、他人のこと自分だ、あいつもこいつも自分だって思ったら生きていけないわけですから。
 色即是空、空即是色がすべてを物語っています。簡単に言えば「あるからなくて、ないからある」ってことです。苦しみや恨みや悲しみや知識などはすべて五感の生じるところであって、あなたの感覚がなければすべては存在しないでしょう。だけれど、すべてがない感覚こそこの宇宙を含むあなたの存在なのです。というのが、これ。悲しみも恨みも感じる感覚がなければそれは存在しない。感じないでいることこそ、すべてを感じる第一歩です。生まれるから死に、死ぬから生まれる。結局は一面的で同じこと。そういう痛烈な二律背反が般若心経の世界なんです。
 五感ってなんでしょう。生命ってなんでしょう。死ぬとか生きるとか、常に二律背反が僕らの宿命としてあるわけなのですが、私たちはどうしてもはっきりと結論を求め、区別したがります。もっと言うならば「自分を満足させるために自分を納得させる理由を求めずにはいられない」生き物なんです。そう考えると、人間の感覚ってナンセンスです。
 私は「同情」と「思いやり」の違いについて考えていました。「同情」はとても内向的な気持ちです。その気持ちはむしろ相手よりも、自分自身に向いている。自分の感覚が結局内側でぐるぐる回ってそこから「ああ、相手って、痛いだろうな」っていう感覚が「同情」。でも、「思いやり」は、もっと自分を越えたところに存在するんじゃないのかなって思います。自分の体験以上の物事をくみ取り、相手への推量ができ、そして相手が喜ぶことをできたならばはじめて「思いやれる」のだなと考えたりしました。
 とにかくこの本、宗教臭さがぜんぜんなくとっつきやすい本です。これはオーラ指定の本ですよ。
posted by ハヤブサ at 00:25| Comment(6) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月10日

フルメタル・ジャケット



あら、戦争はたのしや
 ベトナム戦争を描いた、スタンリー・キューブリックの作品。内容は、皆さんはどうとられるかはわからないが、私は痛烈な皮肉として取った。まず、軍隊式のテンポのよい叫び声のセリフや替え歌と汚いスラングの数々。選曲までもが、楽しげなものとなっている。
 普通、理性があっては人殺しはできない。映画の中で教官も言うが、純粋に殺しができなければ人は殺せない。アメリカは常に「正義の戦争」と言う。戦時中に自国の戦争を否定する国家などありえないが、兵士も「これは正義のための戦争」ということは思っているはずだ。つまり、敵を殺すことそのものに「英雄的な気持ち」が芽生える。これは、ある一種の殺しへの理由付けと、快楽だ。悪人を殺し、正義を導き、祖国で称えられる英雄になる。そのためには多くの「敵」と呼ばれる「人間」を殺す。人を大量に殺すのに「心の迷い」は不必要だ。もし、迷えば自分が死ぬ。国家と言う大きな権力に動かされ、戦場に赴き、敵味方入り乱れての「正当防衛」をするわけだ。
 鉄の心が引き金を引き、弾が勝手に人を殺すと思えるようになるまで、純粋に殺人兵器を培養していくその過程が恐ろしい。結局はこういうことだろうか、「お前たちはこの世界にいかに迷いなく育てられる道具だ」と。
 主人公は胸にピースマーク、ヘルメットに「Born to kill(生来必殺)」と書かれた、軍隊の新聞記者になるジョーカー。人間の表裏一体の姿がこの映画の一つのテーマ。もっと言えば物事の表裏一体性がテーマになるだろう。
 前線の兵士には「平和への願い」など不要だ。参加中の兵士はいかに協力して「敵を殺していくか」が重要になる。弾が飛んでくる中で、一人だけ「人を殺したくない」などと思われても迷惑をするだけだ。その感情を排除するために、前半の養成所のシーンがある。「一人ドーナッツを食えばお前以外の全員が腕立てだ」というシーンが如実にそのことを皮肉めいて描いている。
 血も涙も凍らせたような地獄で理性を持つことは逆に人を不幸にする。大きな迷いが人間を完全に破壊するからだ。事実、理性が人間を破壊するシーンが前半にある。かと言って、理性のないまま生きられるかというとそうではない。世の中に「価値観」がある限りは争いはなくならない。もし、「平和論者」が「戦争支持者」と争いを始めたら、もう「平和論者」は止めた方がいい。そして「平和論者」が平和を唱え、願っている間に、争いが悪化してすべての状況がどん底になったならば同じように「平和論者」は止めた方がいい。もし、殺人者を許したとして、その人が許した後で他の人間を殺したならば、その許した人間は死者に対して責任は持てない。私たちは、物事はよく考えるかもしれないが、その後のことはあまり考えていないことが多い。戦場から早く帰るために、敵を殺すか、精神がいかれるか、負傷するか、誰かが傷つかなければ戦場から帰る平和は望めないと言うのは皮肉なものだ。
 この映画を見るならば、なぜジョーカーが最後にああなったのかということを、彼そのものが提示した「物事の二面性」から考えて欲しいと思う。他のベトナム映画とはまったく違ったタッチで描かれている作品です。
posted by ハヤブサ at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月02日

ガイアの夜明け サッカービジネス

今日放送のガイアの夜明けという番組でサッカー選手のチームとチームの橋渡しをするサッカーエージェントよ呼ばれる人々と、その背景で動く巨大なマネー、サッカービジネスを特集していた。
もともとこういった選手を商品として扱う人々は各スポーツ界にいて、大リーグなどでも活躍しているのだが、サッカーは世界的に人気のあるスポーツ。つまりワールドワイドビジネスと言うことになる。

見ていてひとつ気になったことがあった。「人材ビジネス」についてである。日本においての人材ビジネスは海外ほど活発ではない。それに、日本はこれから平気で税金がたかくなる。とてもじゃないが、日本にいれなくなる。優秀な人材は日本にいるということ自体が不利になる。利益が国に吸い取られるからだ。
これは将来的に何を意味するかというと、日本の人的資源の空洞化の危険性がある。つまり、もっと「引き抜き」が活発化してくれば、日本の優秀な人材は海外へと引き抜かれていってしまって、日本国内に残らなくなってしまうと言うことである。これは、日本の窓口の狭さや人材流通システムの不備、そして一番のネックが税金ということになる。
日本には人事において「動的」な性質がない。これはいかにシステムが優れていようと、優れた人材に対して「仕掛けていかない」という一番のデメリットを意味する。それは言い換えてシステムの死である。この不備をただし、人材システムを活性化させるには、どうしても賃金の面や仕事に関しての「評価の見直し」が迫られることは言うまでもない。どう転んでも、「評価主義」に社会は傾く。これは海外の会社を相手にするうえで避けられない事態となる。そのうえで、あたかもスポーツ選手を引き抜くかのように人材を獲得していく。そうなってこそよい意味での流動化が生まれると私は思う。職場の仲間がうんぬんとかチームでの仕事うんぬんという批判はあるかもしれないが、一番の問題は「本人が納得し、そして充実して仕事に取り組めるか」ということが一番大事なのだと私は考える。そういう考え方が日本にはまだ馴染んでいない。個人は会社の歯車ではない。個人は個人だ。それが人権だ。それを最大限に生かすにはどうすればよいのかを真剣に考えていかなければ、人材の空洞化、もっと言えば、日本の経済貧困化が生まれる。人材力は即ち国力だからだ。
国のことを考えるならば、個人のことから考えなければならない。我々は民主主義社会に生きているんでしょ?ですよね?
posted by ハヤブサ at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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