2005年07月26日

時計仕掛けのオレンジ



世界はこの原理でできている
排他的で、暴力的で、享楽的で、センセーショナルな主人公が暴れる暴れる。
セックスや暴力、己の快楽に忠実に生きているアレックスくんなものだから、映像も見る人にとってはえぐい。
もちろんそういうシーンがたくさん出てくる。
この映画の中には造語がたくさん出てくる。
日本語が奇妙に変形して造語が作られるように、この映画の中でも英語や固有名詞が変形したりしてある意味を持ったりしている。
とにかく新しく強烈なイメージなのだろうが、原理は古い。
というのも、いつの時代にも人間の営みがある限り「本能」とは切っては切れない。
例えば男ならばセックスが嫌いで女性の体も好きじゃないとなればちょっと病気だと思ったほうがいいし、そうでなくても実生活で「便利」や「快適さ」や「出世欲」や「充実感」「食欲」などといった、言葉では具体的には限定できない精神的欲求を満たす行為はつまり、他者の精神的欲求を奪うというアンチテーゼを含む。もしこのことがわからないのならば、あまりにも他人があなたに提供している様々なことを考えたことがない人だろう。これが大きなサイクルであり、大自然の法則でもあるが、その循環システムは人間の中にも数多く存在している。奪ったものは、結局奪われたまま返ってくるということだ。
この映画の中では様々な命題が含まれるが、ひとつだけでまとめるとすれば「人間社会の中で真に道徳的な状態はありえるか」ということなのだが、犯罪人を強制する段階で条件反射で心を強制する。つまり、犯罪のイメージと肉体的苦痛を結び合わせて、犯罪的行為を行う時に体に苦痛が起きるように体内に教え込ませることで道徳的な人間を作ると言うことなのだが、手段からして道徳的ではないということなのだ。
セリフの中にもあるが、選択の自由が奪われる人間を創り上げることは道徳的といえるのかとある。ここで一つ考えて欲しい。映画の中ではナチの映像も出てくるのだが、ヒトラーは人権を奪った。ユダヤ人を大量虐殺した。アーリア人への混血を嫌悪した。そして逆説的に他者から自由を奪って欲求を満たした。詳しいバックグラウンドの説明はよすが、簡単に言うと、支配の中には自由はない。さあ、理性的な社会の中と、人の欲求の中には選択肢はあるかという問題だ。私はあるようでないと思う。結局人々が望む枠内で収まる。それは自由なのだろうか。自由とはなんだろうか。これ以上はよす。
せっかく道徳的な行為を強制的にしろ行えるようになった主人公は、以前の数々の悪行に対して人々からその報いを受けろとばかりに仕返しをされる。ここでもひとつ問題がある。私は常々思っているのだが、腐ったみかん箱の中に新しいみかんを入れてもただ腐るだけだという持論がある。ラストのシーンまで向けてはたして犯罪を行っているのは誰なのかというのが大きな問題だ。
この世は常に人間のよこしまな感情で動いているのだ。
我々は気付かなくとも残酷な行為をして生き延びているということを忘れてはいけない。

難しい話をしたかもしれないけれど、これは今見てもおもしろいかも。
ただ一番最初に言ったとおり、暴力的なシーンとセックスシーンがあるためにえぐく感じる人がいるのも確かだから、苦手な人は止めた方がいい。
撮り方も音楽の使い方もキューブリックという監督は天才の域を極めていると言っていい。
posted by ハヤブサ at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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