2005年05月21日

マークスの山

発行:講談社

おまたじゃくしは踊る。
人伝えに聞いた話だが、高村薫さんは「ミステリーを書いているつもりはない」と言ったそうだ。なるほど、この本を読むとミステリーではない。犯罪の仕掛けや犯人像よりももっと男臭い小説で、人間感情がとてもリアルに描かれている。肝心の犯人は最初の方でわかるのだが、いわゆる精神病である。現在の日本の刑法では第三十九条の条文により、心神喪失者は罰しないことになっている。この犯人は結論から言うと犯人が逮捕されても徒労に終わる・・・と言ったら変だろうか。たとえ何十人犯人が殺したとしても心身喪失状態なのだから罰せられないということなのだ。これは悲しい運命とも言うべきなのかどうかわからない。最初から何か虚しさを感じる。こんないかれた犯人でも愛してくれる優しい女性がいるのだが、人によってはこの女性にこそイラダチを感じるかもしれない。もう、誰をもとがめる事ができるような状態ではないほどに、様々なことが駆け巡る。特に権力機構が絡んできたり、底に固執する人間の邪さや、権力機構の中で生きる人間の憤りが見える。
そもそも男と言うのは本質的に暴力的なのではないかというのが私の本音だ。この小説の中で生きる刑事は、とにかく狙った獲物を追い続ける。「何のためにこんなことをしているのか」という本人たちも気がついている虚しさすらも引き裂いてしまうほどの闘争本能むき出しの感情は、男を描く時ならではの書き方だ。
男なんてつまらないプライドで動いていると言ってはいけない。基本的に戦っていなければどうしようもなく空回りしてしまう生き物なのだ。この小説ではその闘争の対象がたまたま殺伐としているだけで、形を変え、方向を変え、世の男たちは戦おうとする。それが男なのだ。
意思や感情とは別に、少なくとも体や皮膚に刻まれた記憶が反応するはずだ

心理戦が非常に巧みな一面を見せるこの小説だが、犯人を問い詰める際に出てくるこの文章はこの小説の中で動くすべての人に当てはまる。それだけに、ある意味切ない。その半面、小説の中で重要な位置を占める唯一の女性、犯人の恋人の気持ちがこの小説にたったひとつの救いを与えてくれているような気がする。

読み終わって、この小説は一体なんなのかを考えさせられる。主人公合田が言うセリフの場面でこんな文章がある。
「〜命がかかってるから、その分何か特別な仲間意識のようなものがあるのは感じる。いい意味でも、悪い意味でも。案外、閉じられた狭い世界なのかも知れんな」
「私らみたいだ」
森は一言いい、虚空に向かって軽く嗤った。

何かこの部分が小説すべてを物語っているような気がする。この小説そのものがこの一場面の文章なのだと。まるで滑稽な自分たちの位置や周囲の状況を嘲笑するにはあまりあるが、その中で生きるしかないのも自分らなのだという気持ちがくみ取れる。組織の中で生きる人間。権力、己の保身、プライド、あたかもつまらないものに固執して動いているには誰なんだ。嗤うにも嗤いきれない彼らの苦悩は私らの日常にも深く浸透してくる虚しい問いだ。
posted by ハヤブサ at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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